関ヶ原散策  岐阜県  2006.10.08
ルート:歴史民俗資料館〜丸山〜笹尾山〜小池〜北天満山〜南天満山〜宮上〜不破関資料館〜不破関跡〜松尾山〜柴井〜東首塚〜陣場野〜歴史民俗資料館
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関ヶ原町 歴史民俗資料館。

今日は関ヶ原にやってきた。
天下分け目の決戦が行われた現地を
散策する。
まずは、資料館で関ヶ原の戦いの復習。

昨日の岐阜散策はこちら
黒田長政・竹中重門の陣跡。
長い散策を開始。
黒田・竹中の陣地は丸山に置かれた。
ここは、東軍の開戦の狼煙が
上がったところでもある。
決戦地。
石田三成の陣地 笹尾山付近にあり
最大の激戦があったとされるところ。
蒲生郷舎の陣跡。
笹尾山 山麓に置かれた。
蒲生郷舎は石田三成に仕えた武将。
黒田・細川・加藤隊が攻め込んだ。
石田三成の陣跡。
笹尾山 山頂に置かれた。
兵数 6000。
関ヶ原がよく見渡せ
合戦の様子がよく分かったことだろう。
桃配山方面を望む。
徳川家康の最初の陣地である桃配山も
よく見える。
松尾山方面を望む。
勝敗を左右したと言われる小早川秀秋の
陣地 松尾山もよく見える。
島津義弘の陣跡。
北天満山近くの小池に置かれた。
兵数 1000。
西軍が敗走する中
敵中突破を行い、島津隊の強さを
見せつけた。
開戦地。
井伊隊が島津隊に向けて
攻撃を開始し、合戦の火ぶたが
切って落とされた。
その場所。
小西行長の陣跡。
北天満山に置かれた。
兵数 4000。
田中・織田隊が攻め込んだ。
宇喜多秀家の陣跡。
南天満山に置かれた。
兵数 17000。
福島隊が攻め込んだ。
大谷吉継の墓。
敵方の藤堂家が建てたらしい。
大谷吉継の陣跡。
宮上に置かれた。
兵数 2500。
藤堂・京極隊が攻め込んだ。
東海道本線。
線路は危険です。
渡らないでください、とのことです。
不破関資料館。
不破関は壬申の乱後に設置された関で
三関の1つ。
資料館では関の資料を展示している。
不破関跡。
古代の天下分け目の戦い 壬申の乱も
関ヶ原付近で行われたらしい。
昔から重要な地域だったのだろう。
不破関は平安時代初期に廃止され
その後、関守が置かれた。
蕎麦と彼岸花。
脇坂安治の陣跡。
松尾山 山麓に置かれた。
兵数 1000。
西軍に属していたが
もともと東軍に通じていた。
小早川隊の裏切り後、
大谷隊に攻め込んだ。
これによって、勝敗が決したという。
小早川秀秋の陣跡。
松尾山 山頂に置かれた。
兵数 15000。
午前中は傍観し動かなかったが
午後、東軍に寝返り、大谷隊に攻め込んだ。
この陣地は松尾山城跡を利用して
構築されており、土塁などの遺構も残っている。
福島正則の陣跡。
南天満山に対して陣を置いた。
兵数 6000。
宇喜多隊に攻め込んだ。
大木は月見宮大杉と呼ばれ
樹齢800年。
藤堂高虎・京極高知の陣跡。
中山道南の柴井に置かれた。
兵数 5500。
大谷隊に攻め込んだ。
本多忠勝の陣跡。
軍監として、関ヶ原中央に陣を置いた。
兵数 500。
宇喜多・島津隊に攻め込んだ。
本隊は嫡男 忠政とともに
中山道を行軍中だった。
松平忠吉・井伊直政の陣跡。
関ヶ原中央に置かれた。
兵数 6000。
島津隊に攻撃し、開戦の火ぶたを切った。
後、宇喜多・島津隊に攻め込んだ。
松平忠吉は、家康の四男。
東首塚。
合戦の直後に竹中家が築いた。
首洗いの古井戸。
この井戸の水で、打ち取った将士の
首級を洗い、首実験を行ったらしい。
その後、首級は塚に葬られた。
田中吉政の陣跡。
笹尾山に対して陣を置いた。
兵数 3000。
小西・石田隊に攻め込んだ。
敗走した石田三成は田中吉政配下の
兵に見つけられ、捕まった。
徳川家康 最後の陣跡。
家康は桃配山から陣を移し
笹尾山付近まで前進してきた。
陣場野の床几場とも呼ばれる。

4時間以上の散策を終了し
歴史民俗資料館に戻った。
さすがに疲れた…。
明日は下呂温泉を散策する。

つづく
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